青菅の歴史

ここ、千葉県佐倉市の”青菅”(おおすげ)という場所は、歴史のある古い地域です。そこで、青菅の歴史と、平成19年に佐倉市無形民俗文化財に指定された青菅の「どんどれえ」をご紹介したいと思います。

◆青菅の「どんどれえ」

青菅(あおすげ)の「どんどれえ」は、千葉県佐倉市青菅で行われる小正月の行事です。江戸時代初期にこの地を知行した旗本川口氏の頃に始まったと伝えられています。市内でも数少なくなった民俗行事です。
1月14日の夕方に、正月の門松やしめ縄を「どんどれえ塚」と呼ばれる場所に一か所に集め、高く積み上げて焼きます。以前は、14日に小正月の行事として男の子を中心として行われていましたが、現在では地区の行事として大人とともに行われています。

この青菅の「どんどれえ」について、佐倉市文化財審議会委員の長さんが、昭和60年代当時、お年寄りから聞いて書き留めたもの、またご自身で調査された結果をまとめた貴重な資料がありますので、それをもとに詳しく紹介したいと思います。

なぜ、「どんどれえ」?

一般には、「どんど焼き」と言われるこの行事、どうして「どんどれえ」と言うのでしょう。称念寺の先代の御住職・(故)小島令考氏によって記されたものによると、爆竹の「どんど」に「払い」が訛って「はれえ」となった語が続き、「どんどはれえ」が「どんどれえ」となったもので、言葉の意味としては、「爆竹の大きな音で、悪魔払いをする」とあります。実はこの名称は、この行事の本質を最も端的に表している言葉だったのです。

九本のご神木

青菅の「どんどれえ」では、「どんどれえ塚」に、「どうしんぼく」と呼ばれる1本の竹を中心に、9本の孟宗竹を直立に立てて火をつけます。その一本一本は上部に枝葉を残してあとはきれいにとってしまいます。これは、神様の依り代(よりしろ)を表しています。依り代とは、神様が降りてこられる所のことです。真ん中に立てる竹を「どうしんぼく」と言いますが、「中心にある神木」の意味です。

全国のどんど焼きや左義長では、割合多くのところで一年12ヶ月を表す12本の竹を立て、うるう年には、1本多く立てています。つまり、月々の悪魔払いをして一年の無病息災・五穀豊穣を祈願しているのです。他に36本というのもあり、これは12ヶ月と24節気を合わせた数だそうです。つまり、この行事は、暦数や天体、吉凶を占うことと深く関連があります。

青菅の場合の「9」という数についてですが、「九曜」ととらえられています。九曜に対する信仰は日本では平安時代にさかのぼります。「七曜」とは、「日・月・火・水・木・金・土」のことで、「九曜」はこれに「羅ゴウ(漢字は目へんに侯)・計都」という想像上の星を加えたものです。

「どんどれえ」の歴史

小島令考氏によって記されたものによると、その歴史は、青菅に旗本の川口氏がおかれた江戸時代初期にさかのぼるようです。初期の「どんどれえ」は、「小陣屋口の全戸がクズ束を持ち寄り夕暮れに点火したと伝わる」と記されています。つまり、この行事の始まりは、陣屋口からということになります。

(『佐倉市史』には、青菅は慶長11年(1606年)から元禄11年(1698年)8月までの約93年間、徳川幕府の直轄地で、川口宗勝・宗信・宗次・宗恒の四代にわたる知行地(治めた所)であり、四代目の宗恒が出た後に、佐倉藩領になった事が記されています。この時、数人の家臣がとどまり、後に「陣屋口五姓」「郷口二姓」と言われるようになったようです。)

明治時代中ごろには、すでに子供の行事としてほぼ現在と同規模になっており、大正時代末ころまでに辺田の子供たちの参加も自由になったようです。戦時中、米軍機が飛来した数年間も日没前にごくささやかに行われ、戦後次第にかつての盛大さを取り戻していったと記されています。記録で見る限り、この行事を行わなかった年がないということになります。

昔の「どんどれえ」の様子

青菅には、幕府時代から、火災予防のため薪(たきぎ)置き場の共有地があり、そこに「木小屋(きごや)」がありました。今は電気やガス・石油など使い便利になりましたが、以前はカマドや風呂焚きなどに使う一年分の燃料(クズ)を集めるために、冬場の作業として山の中に入りました。燃料は、山林の下枝や下草で、これを刈って束ねたものを木小屋に蓄えたのです。木小屋は、通称「出土」に十数棟、「大和田台」に数棟ありました。子供たちは一軒につきクズを二束ずつもらい、荷車で「どんどれえ塚」まで運びました。(もっと前は、三束ずつ集めたようです)

子供たちは、正月三日から「どんどれえ」の孟宗竹9本分の穴掘りを始めました。周辺の竹林から孟宗竹を切り出し、一本を4~5人で運び、9つの穴に立てました。竹の間にクズ束を積み上げてその上に2人の子供が上がり、竹2本をレールにしてさらに下からクズ束を引き上げて重ねていき、最後に各家から集めた門松などを頂上に積み上げます。「どうしんぼく」に青菅側に倒すための引き綱が結ばれてこれで完成です。

14日当日、午前中にそれぞれの家で新年最初の餅つきをします。前日までに適当な大きさの栗の木を準備しておきますが、14日この木を家の大黒柱に結わえます。ついたお餅は丸餅にして12個を枝にさしたり戸主の年齢の数だけさしたりします。12個というのは、一年12ヶ月が実りある年でありますようにということなのです。これを「成り木」といい、このお餅を「成らせ餅」といいます。栗の木は、一年間繰り回しが良いようにと祈念して使われます。この時に、「どんどれえ」で焼くお餅を、また焼くときに使う長さ2~3mで先が二股に分かれた栗の木の枝も準備します。

夜6時、最上級生の男の子により点火され、炎が上空に上がると子供たちは「どうしんぼく」を青菅側に倒そうと懸命になったようです。一年の吉凶を占っているのです。青菅側に倒れると青菅が豊作、先崎側に倒れると先崎が豊作と言われています。その年一年、豊作でありますようにという祈りがこめられています。

無病息災・五穀豊穣を祈願

火が下火になった頃に、ザンマタ(二股)の栗の枝に一個ずつ餅を刺し、この火にかざして焼きその場で食べますが、これで、一年間風邪を引くことがないと言われています。また、門松の「燃えちゃれ(=燃えさし)」をいただいて帰り、門口にさします。こうすると、「盗難除け」「魔除け」になると言われます。また他にも、「どんどれえ」を行えば火災は起こらない、正月の焚き火は「どんどれえ」前にはやらない、正月にとった燃料は、「どんどれえ」前には燃やさない(これを犯せば火事になると信じていた)、などの言い伝えがあります。

「青菅には心から誇れる歴史も伝統行事もございます。一つの行事が、長く続いて来たということには、やはりそれなりの確かな意味を伴っております。その意味を知ってこそ、行事にたずさわる意欲そして大きな喜び、さらに郷土への誇りも湧いてくるのではないでしょうか。」と、佐倉市文化財審議会委員の長さんは、最後をこう結んでいます。

古くから青菅にある家で、小学校に通う子供は5人(平成29年度現在)になってしまいましたが、大人も手伝い、現在も続けています。